当院は、1914年(大正3年)に炭鉱職員とその家族のための診療所として開院して以来、111年にわたって、周辺地域とともに発展してきました。
くしくも私の曽祖父も同じ時代に、炭鉱付属の病院の薬剤師として各地を転々としており、北海道で赴任中に生まれたのが祖母でした。
幼いころの祖母は、熊を追うアイヌの人たちについてまわり、あとで知った父親からひどく叱られたといいます。
当時の様子は、いまでこそ映画化もされた漫画『ゴールデンカムイ』などで少し想像がつきますが、それまでは祖母の話が、私の知る昭和初期の北海道のすべてでした。
そして、『ゴールデンカムイ』の舞台となった明治末期から大正に変わって間もない時代から、当院は姪浜の地で、地域医療を支えつづけています。
40年たっても、祖母との思い出は忘れがたいものです。
夏休みや冬休みに帰省すると、集まった孫の一人ひとりに、祖母が「あんた薬剤師にならんかね」と聞いてまわるのが、ひとつの風物詩となっていました。
また、お盆になると、祖母が押し入れから木箱を取りだし、なかに入った石を大切そうに仏壇に供えていた姿も忘れられません。
幼かった私は、木箱によほど高価なものが入っているのだろうと期待していたので、中身が“ただの石”だと知り、がっかりしたものでした。
あとから分かったことですが、炭鉱病院の職員として各地を転々としたのち、県内で薬局を開業した曾祖父には、跡取りとして期待していた男子(祖母の兄)がありましたが、戦時下のビルマでなくしています。
私には“ただの石”にしか見えなかったそれは、祖母にとっては、大好きだった兄ともいえる“ビルマの石”だったのです。
結局のところ「あんた薬剤師にならんかね」と、祖母が熱心にたずねていた甲斐があったのか、妹、娘、孫のうち計4名が医療従事者になりました。
祖母自身はというと、小さな町の百貨店の衣類の手直しや裁縫の仕事をしながら、家の前に流れる小川の柵にプランターを取りつけ、たくさんの花を植えて新聞に載るなど、人から喜ばれることを、自らの喜びとしていました。
さらに、仲間たちと市民活動をつづけ、小さな町に大きな病院を誘致することにも成功しています。
質素な生活を送るほかなかった祖母にとって、宝と呼べるものは、’’子供と孫”、木箱に入った“ビルマの石”、そして“人との心のつながり”だったように思います。
しかし、それだけでも人は幸せになれることを、祖母の笑顔から学んだ気がします。
時はすぎ、ビルマはミャンマーと名を変えました。
人口の減少から、すべての病院で外国人採用が避けられない情勢下にあって、勤勉で真面目な国民性で知られるミャンマー人材は人気となっています。
今年の7月には、当院でも初の外国人介護スタッフとしてミャンマー人が採用となり、私も関わらせていただきましたが、日本語のレベルが高いうえに英語も話せ、介護福祉士の資格をもった、希少で優秀な方です。
激動する時代の流れに対応しつづけた結果、111年の歩みといまがあります。
これからも、“心のつながり”を名に冠した歴史ある病院で働けることに感謝しながら、次は私たちが、地域の皆さまや子供たちの世代へ、心のかよう医療をひきつげるよう、自分の責務をまっとうしたいと考えています。
事務職員